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戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館

Q7.戦後、「慰安婦」制度の責任者・加害者は裁かれたのですか?

東京裁判に証拠として提出

1946年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。東条英機や梅津美治郎、板垣征四郎ら28人の被告は、「平和に対する罪」(A級戦争犯罪)、と「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)で裁かれました。
東京裁判には、日本軍が「慰安婦」を強制したことを示す証拠書類が各国の検察団から提出されました。そこには、日本軍による強制徴集や強制収容、「慰安婦」の強要などの実態が記されています。日本軍「慰安婦」制度そのものは訴因とされていないことや、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾から慰安所に送り込まれた膨大な数の女性たちの被害が取り上げられていないなど、きちんと裁かれたとはいえませんが、各国の検察官たちは「慰安婦」を強制したことが戦争犯罪であると認識していたことがわかります。
オランダの検察団は、インドネシアのマゲラン(ジャワ島)、モア島、ポンティアナック(ボルネオ島)、ポルトガル領ティモールの証拠を提出しました。オランダ人女性を「慰安婦」にしたマゲランの慰安所以外は、地元の女性たちが「慰安婦」にされました。ティモールでは、地域の有力者に命じて女性を提供させたことが記されています。
フランス検察団は、ベトナム人女性をランソンの慰安所に強制的に連行し、「慰安婦」にした証拠を提出しました。ベトナム人女性の口述書には、フランス兵といっしょに生活していたベトナム人女性数人が、先安(ティエンイエン)に設けられた性売買施設へ行くよう強制されたことが書かれています。
中国の検察団は、桂林で女工の名目で女性を集め、強制的に「慰安婦」にしたことを示す証拠を提出しました。東京裁判の判決では、その事実が認定されています(『極東国際軍事裁判速記録』判決速記録p.186)。
フィリピンの検察団は、セブ島ホゴで女性を強かんした後、3週間にわたって「情婦」となるよう強制した事例や、マニラ戦で起こったベイビュー・ホテル事件のような大規模な集団強かん事件も取り上げました。

複数のBC級戦犯裁判で裁かれる

戦後、連合軍8カ国(アメリカ・イギリス・オーストラリア・フィリピン・フランス・オランダ・中国・ソ連)は、各地で日本軍関係の「通例の戦争犯罪」などを裁くBC級戦犯裁判を開きました。オランダやアメリカ、中国のBC級戦犯裁判では、「強制売春」「強制売春のための婦女誘拐」の容疑で「慰安婦」を強制した事件をいくつか裁きました。
オランダが裁いた裁判には、バタビア裁判、ポンティアナック裁判、バリクパパン裁判などがあります。バタビア裁判の一つは、1944年にジャワ島のスマランに抑留されていたオランダ人女性ら約35人を強制的に「慰安婦」にしたスマラン事件です。ここは約2カ月後に上級司令部の命令で閉鎖されましたが、慰安所を開いた責任者の岡田少佐には死刑が、6人の将校と4人の慰安所業者には2年から20年の禁固刑が言い渡されました。
もう一つは、「あけぼの食堂」の日本人経営者・青地鷲雄がバタビア(現在のジャカルタ)の軍政機関から慰安所を作るように指示され、1943年に日本の民間人用に開いた「櫻倶楽部」事件です。オランダ人女性など20人が「慰安婦」にされ、中には12歳や14歳の少女もいました。「憲兵隊を呼ぶぞ」と脅迫されて「慰安婦」にさせられた女性もいます。
アメリカが裁いたのは、グアムの女性を「慰安婦」にして日本軍のための慰安所を作った事件です。1941年12月に日本軍はグアムを占領しましたが、3カ月後の1942年2月、グアムの日本人商人が、地元の何人もの女性に「慰安婦」になることを強制。そのうち2人の女性のケースが起訴され、この日本人には「強制売春」の罪などで15年の強制労働の判決が言い渡されました。

不十分だった戦犯裁判での追及

以上のように「慰安婦」被害の一部は戦犯裁判でも証拠が提出され、判決でも触れられています。しかし、アジア諸国の女性たちの被害についての調査はごく一部にとどまり、日本の植民地だった朝鮮・台湾の女性たちの被害は取り上げられていません。なによりも、「慰安婦」制度を立案・設置・運営した日本軍と政府高官の法的責任は問われませんでした。